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木浦鉱山の錫が奈良の大仏に使用されていたという歴史を辿り旅に出かけてきました。 2006年6月17日。大分県歴史資料館と宇佐神宮に行ってきました。木浦鉱山の錫の記述がある書物はないかと思いましたが見つからず、宮司さんから、「長門町という地名がかかわりの深さを物語っているのでは・・・」とのご指摘をいただきました。 19日。東大寺図書館で居合わせた職員3名とお上人様1名が選んでくださった古書の中に銅に関する記述がありました。銅88〜96%に対して、錫は1.5〜2%、多くても4%、鉛は1%の混入だったとのこと。それにより圧倒的に量の多い銅と同時に精製されて送られたため、その陰に隠れてしまって、『木浦鉱山』の名前が表に出なかったということが理解できました。『技術者のみた 奈良と鎌倉の大仏』の中に「銅の大部分は長門の国の大和鉱山から送られた」という記録に触れているので、『大和鉱山』から奈良に大量の銅を送る中で『奈良登り銅山』と呼ばれるようになったのではないでしょうか。 長登銅山は15年以上の発掘調査で大量の木簡などが出土し、『奈良登り銅山』であったことが実証され、国の制度で大々的な取り組みになっています。東大寺図書館でも共通の判断は「長門町という地名がかかわりの深さを証明しているのでは…。確証を得るためには膨大な木簡の解読が必要でこれ以上は無理ですね」というものでした。 奈良の大仏建立ロマンの中、最大で最後の課題、『錫がどこから来たかという1250有余年の謎解き』が解決しました。わたしは『歴史の掘り起こしと謎解きを卒業できた!』と実感しました。突然の訪問にもかかわらず、快くご協力くださいました皆様に、心から感謝と御礼を申しあげます。ありがとうございました。 |
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